徒然。

理想と現実と

傘が好きだ。

雨の日に自分を雨粒から守ってくれる物というのは、それだけで安心感・信頼感が芽生えるし、心が温かくなる。

歌の歌詞で「あなたが雨に濡れそうな時私が傘になる」的なニュアンスのものが頻繁に出てくることからも、傘を「災難から守るもの」の比喩として使われていることがよくわかる。

 

「あなたが雨に濡れそうな時私が傘になる」というありがちな歌詞(仮想敵)について少し穿った見方をすると、歌の中の主人公にとっては、傘は"自分がなるもの"なのだ。おもしろい。

私は傘が好きなので、「お前の好きな物になる」などと自ら申し出てくれる人は大歓迎なのだが、それはそれとしていささか解釈違いが生じてしまうのが残念なところである。

というのも、私は傘について「自己肯定の具現化」だと思っているからだ。

 

冒頭にも記述した通り、私は傘について「雨の日に自分を雨粒から守ってくれる物」だと考えている。

自分が雨という災難を避けるために広げて、自分を守るためのものであって、自己犠牲・他者奉仕の為に使われる道具では無いのだ。

もちろん他人を慮る心は美しい。愛する人が雨で濡れないようにという気持ちも分かる。けれども、大切な人の傘になることや、大切な人に傘をあげること、すなわち「自分が濡れること」について厭わない姿勢というのは、傘というものの本質から外れている気がするのだ。

傘の、温かくて大きな愛は、まず第一に持ち主に向けられているものであり、買った人間を守るための物なのだから。

だから、傘は「自己肯定の具現化」なのだ。自分を災難からよけてやることが自己肯定じゃないならなんなのだ。私たちは傘を差すとき、自然と自分を愛しているのだ。

 

そういう考えを持っているので、雨に濡れても平気な人間を見ると、私はなんとも言えない気持ちになる。

傘を貸してあげるとか一緒に入れてあげるとか、そういうその場しのぎの対処をもちろん考えるし実行もするが、そういうことではなく、もっと根本のところの意識を思って悲しくなってしまう。

濡れても平気な人には、まず自分の傘を持って自分を守るくらいの自己肯定をしてほしい、と思う。ただ、現実的に傘は透明傘でもそこそこ高いので、「持ってなければ気軽に買える」というものでもなく、難しいところではあるのだが…。

 

そういえば、「濡れても平気」で思い出したのだが、どう見てもビショビショに濡れてるのに温かい気持ちになったことが一度だけある。

コンビニ袋をぶら下げたカップルが、壊れかけの透明傘1本を2人で持って、何が面白いのかケラケラと腹を抱えながら歩くので、持っているはずの傘が全く意味をなさず、結果2人ともほぼ全身濡れた状態で歩いている光景を見た時だ。

彼らにとって傘はあってもなくても変わらないのに、手を繋ぐついでだと言わんばかりにとりあえず差していて、その傘はこの2人だけの世界を肯定するためだけに存在していた。仮に持ち主を濡らしたとて、誰のためでもなく自分たちのためだけに差されたその傘は雨の中で何よりも大きな肯定をしていた。素敵だった。

 

また今年も梅雨が来る。傘の出番も増えることだろう。傘が素敵だと雨の日も楽しくなるので、素敵な傘を1本、買っておくことをお勧めする。