徒然。

理想と現実と

『きらきらひかる』なみだをだして

「変わらないもの」は大切だ。何もかも変わってしまったらそれは私でなくなってしまう。けれど同時に、それは「変わるもの」が多いからこそ、そして私がそれを受け入れているからこそ、その中で不変のものーー普遍では無いかもしれないけれどーーを大事にするのだ。

私たちは普段、変わることを恐れない。私たちは当たり前のように四つん這いの赤ん坊から二足歩行になり、言葉を喋るようになり、親と喧嘩して、仲直りして、自分でものを考えるようになって、環境が変わるごとに変化する交友関係すら、変わる時には少しさみしいと思いながら、それでも期待と不安を胸に抱いてーー入学式の定番フレーズだ、気に食わないーー変化へと身を投じていく。

 

それはでもやっぱり、その人にとって変化が当たり前だからなのだ。変化することが普通で、何も変わりない人を見かけるとちょっと不安になる、普通の人達の常識。

睦月と笑子は、そんな"普通"の人たちに囲まれて雁字搦めになって変化を余儀なく要求されてしまう、変化を望まない人達だ。周りは彼らに対して"あたりまえ"のことを要求する。夫婦の"あたりまえ"と言ったらひとつしかなくて、それは子供だ。『きらきらひかる』は、ちょっと"おかしい"夫婦に対して、"普通"の人達が"普通"を要求する、具体的にいえば「子供はまだなの?」と言い続ける、言ってしまえばただそれだけの小説で、展開も何もない。展開がなくて当たり前だ。なぜなら彼らは変化を望んでない。変わらない日々を守るためにただただ困り、情緒不安定になり、鬱になり、なだめ、躁になり、お酒を飲み、泣き叫び、手を焼き、嘘をつき、考え、金魚のタイムをはかる。

「どうしてこのままじゃいけないのかしら。このままでこんなに自然なのに」と、笑子は言う。たったこれだけの言葉に私は泣く。どうしてなんだろうね、なんでなんだろうね、と読んでるだけなのに途方に暮れながら。

睦月は恋人の紺くんを好きだけど、ちゃんと妻の笑子を愛していて、笑子は睦月をしっかり愛してる。多分きっと2人ともお互いに恋をしていたし、愛情が溢れている描写が節々に表れているのに、変化が怖くて"普通"の夫婦がこなしているあれやこれやができない。愛があればなんでも出来るなんて嘘だ。愛だけじゃどうにもならないことが沢山ある。

 

この小説は1991年に書かれたらしい。今から30年も前に、同性愛者と躁鬱病を見事に描ききった江國香織は、やはりどこか変わっていたのだろう。あとがきにはこう書かれている。

「素直にいえば、恋をしたり信じあったりするのは無謀なことだと思います。どう考えたって蛮勇です。

それでもそれをやってしまう、たくさんの向こう見ずな人々に、この本を読んでいただけたら嬉しいです。」