徒然。

理想と現実と

角田光代『Presents』を読んで

角田光代さんのお名前は存じ上げていたのだけれど、どのような文章を書く人なのかは全く知らずにいたので、素敵な著作に出逢えたなというのがまずはざっくりした感想。

物語自体は短編のオムニバス形式で、女性の登場人物が「Present」について思いを馳せていく。毎回物語に没頭しつつも「自分にもこんな経験はあったのかもしれない」と思える、そんなお話ばかりで、つまり主人公がどれも着飾らない等身大な女性ばかりだった。

全てのお話を読み終えたあと、きっとこれを読んだ人全員が考えるであろう「一番心に残った贈り物ってなんだろう」という問いについて考えていたのだけど、二十云年生きただけの私の「一番」なんていつ簡単に塗り変わってもおかしくない。けれどそもそも贈り物に優劣なんて付け難いのでそれについて今回は書き残していきたい。

 

そもそもこの話と巡り合えたのは塾のバイトで過去問を生徒に教える機会があったからだ。過去問に出てきて、かなり不意打ちだったので号泣しながら問題を解いた。その生徒を教える機会がなければこの話と巡り合うことは無かったので、まずこの本自体が「生徒からの贈り物」なのだ。

その塾で大学4年間アルバイトをしていく中で、沢山の生徒から沢山の「贈り物」を貰った。受験生からの受験結果、それとともに頂いた宝石のようなお菓子、懐いてくれている生徒が(お菓子のやり取りは禁止されているにもかかわらず)日常的にくれるお菓子、それと共に贈られる「先生大好き」という言葉、教室に貼ってあるだけの「先生の自己紹介カード」をしっかり見てそこに書いてある誕生日を覚えて当日貰った誕生日プレゼントのお菓子、そこに加えられる「いつもありがとうございます」の言葉…………

4年間で沢山の生徒から沢山の言葉とお菓子を貰った。私はそれだけのものを返せただろうか、私から贈れるものは勉強のアドバイスと問題の解き方しかない中でそれはしっかりと釣り合っていたのだろうか、とよく考える。そしてこれからもこの業界に居続ける以上常に考えていくことになるだろうし、考えることをやめてはならないと思う。

今日は1年間ずっと目をかけてきた生徒から第一志望の合格報告があった。受験というものと向き合う業界で働いてるのでこの「贈り物」は本当に嬉しい。ただ、結果よりも、私が授業中に贈った全てが、その生徒の人生をささえる何かになっていればそれ以上の喜びは無いと思う。

 

さて、確かに生徒から貰った贈り物はどれも嬉しいものでどれも大切なものだが、それを遥かに凌駕する、自分の命より大切なものがある。それはとんでもなく大きいサイズのミッフィーちゃんのぬいぐるみだ。ミッフィーちゃんは私が生まれてすぐ祖母が買ってきてくれたものらしく、ずっとずっと私の隣で一緒に寝てきた子なのだ。親に言いくるめられて悔しい時も、弟と喧嘩して腹の立つ時も、学校で辛いことがあった時も、受験や卒論でストレスが溜まりまくった時も、いつも抱き締めながら、時には涙も染み込ませながら一緒に寝てきた子なのだ。

時々、火事で家が全焼してミッフィーも焼けてしまったら、と考えてしまう。私にとってミッフィーは心の拠り所で、それを無くしてしまったら、今までずっと何とか立ってきた自分が全て崩れてしまうだろう。それくらいかけがえのない唯一無二の宝物で、貰った時の記憶なんて全くないけれど、祖母には一生感謝し続けるし、おそらくそれが「一番心に残る贈り物」となるのだろうと、弱冠二十なんぼの私は思っている。

 

春からの新生活にも、もし結婚したらその新居にもミッフィーちゃんは必ず持っていくだろうし、もし子供が生まれたなら私は多分赤子よりふた周りくらい大きなサイズのぬいぐるみを我が子に贈ると思う。その子が生きていく上で心の拠り所になるような、大きくて包容力のあるぬいぐるみを。

卒論完成報告!

んぁーーー!終わりました!😭

自分の中でもう少しはっきりしたいことは沢山あったものの、ひとまず論理としてまとまってたらしいです!良かった!あけましておめでとうございます🤗お誕生日おめでとう私👏👏👏

卒論に関してはまた2/12に発表しなきゃいけないのでおいといて、どういう動機であのテーマを選んだのかというのをあとがきで書いたので、そちらだけこのブログにて共有したいと思います。

 

あとがき

 近年、イデオロギーによる国民の分裂が激しくなっていると感じることが多い。情報を取捨選択できる時代になったからか、自分と似た主張の者同士でコミュニケーションを取り合い、少しでも主張が違うとなれば排他的になる者が増えた。また情報伝達手段の発達にともなうデマの拡散速度が凄まじく、それを安直に信じる者の数の増大も著しい。前述の通り自分と意見の合うものだけのコミュニティが既に形成されているので、その中でデマが拡散されると、それを否定する人の言うことなど聞かず、妄信的になってしまう。
つい最近の出来事の話だが、アメリカの大統領選で僅差でバイデン氏が勝利したものの、トランプ氏を支持する一部過激派が次自分の正義を信じるあまりに暴動を起こし、死者を出す騒ぎに発展した。さらに「その暴動を起こしたのは反トランプ陣営であり、トランプ支持者を偽装している」とのデマも同時に拡散された。そしてその影響は日本にも及び、現在もまだ信じている人間が大勢いる。
私が幕末の「政権移行期」の農民に焦点を当てたのは、イデオロギーの二項対立が激しい社会で生きていく中で、「政権が交代した暁には国が滅ぶ」というような論調の人間を多く見かけたからである。約二六〇年続いた幕府が滅んだ時、庶民にはどのような生活の変化があって、国はどのようになっていったのかを知りたかったからである。結果としては政権が変わっても自分自身は変わらず淡々と仕事をこなす宿方や村役人の姿や、柔軟に新政府に対応する農民の姿が見られた。声を上げるべきところでしっかりと声を上げつつ、やれることをこなしながら新政府に対応する農民の姿は、見習うべきものがある。今、未曾有の事態に直面している私たちは、前に進むことばかり考えず、後ろを振り返ってみるべきなのではないだろうか。
最後に、今回たくさんの史料を撮影させてくださった埼玉県立文書館様、、一緒に活動したゼミの皆さま、常に親身になって相談に乗ってくださり本論文を作成する上で非常に助けていただいたT先生、そして近世史研究を面白いと思わせてくださったO先生に感謝の気持ちを込めて。

白髪頭を叩いてみれば文明退化の音がする

歴史は地続きで、劇的な変化なんてそうそう起こらない。明治維新ですら何もかもがひっくりかえったわけじゃないし、WWⅡ前後で変わらないものも沢山ある。変化はいつだって声を上げまくってやっと少しずつあるものだ、と思う。

よく「令和にもなって」という枕詞で昭和のまま止まった価値観を揶揄するものがあるけれど、その気持ちは分かりつつ、でも変えるには前の世代が死ぬしかないからしょうがないのだという思いもある。天動説から地動説に変わったのだってそうなのだもの。

だけど、だからといって呑気に構えていても変わらないものは変わらない。変えていこうという声の大きさと世代交代が合わさって始めて変化は訪れる。

 

女性差別や性的マイノリティ差別なんかは今現在変わろうという動きが強まっており、徐々に緩やかに変わっていっているものの一つだ。「女性差別」とは言うけどどちらかと言うと「性役割の押し付け」と言った方が正しいかもしれない。性役割を押し付けられた時に男性の不利益より女性の不利益の方が大きいため「女性差別」と言っているだけ、と私は思っている。性役割の押し付けによって窮屈な想いをしている男性も多いことだろう。

今回語りたいのはこの「性役割の押し付け」についてだ。

 

性役割の押し付け」は良くない、と私は思っている。女は黙ってろとか言われたくないし、馬鹿なフリして「おだてのさしすせそ」なんか使いたくないし、なにより可愛い性格をしていないので可愛くあることが出来ない。その代わり男性にも甲斐性(がどういうものかわからないけど)とか求めてない。荷物は持たなくていいし、車道側を歩いてもらわなくても構わない。あと割り勘でいい。

ただ、一方で好きな人ができた時、私は異性愛者なので好意を寄せる男性に対して「可愛く思ってもらいたい」と思っていると思う。多分…。そして男性に対して「リードして欲しい」とも、きっと思う。リードっていうのは、なんだろう、初動は出来ればそちらからしてほしいし最終的な意思決定は任せたい、という所だろうか…。

リードして欲しいって言うのは正直「好きな異性」のみに抱く感情なのかわからない。普通の約束でも相手から声がかからないと動かない上に自分も色々候補は出しはするものの最終的な決定は相手に委ねることが多い人間なので、私は人としてそういうことを求めている人間であるというだけかもしれない。

 

問題は「可愛いと思われたい」ということだ。これは好きな人特有に抱く感情である。もちろん友人に可愛いと言われるのは嬉しいけれど、それは褒められているからこその嬉しさであって「可愛い」という言葉を求めているからでは無い。

この「可愛いと思われたい」という感情は、私のどういう価値観から形成されているのだろうと最近、特にジェンダーについて色々と考えている時に、よく疑問に思う。

1番可能性が高いのは、「女の子は可愛い方がいい」というジェンダーバイアスが染み付いているということだ。そしてこのバイアスは「性役割の押し付け」にほかならない。そうなると私はもう迂闊に「性役割の押し付けはよくない!」とは言えない立場になってしまう。だって自分自身にそれをしてしまっているんだもの。

もちろん「可愛さ」の定義にもよる。私の中で「可愛さ」とは、まず外見であり、それは顔はもちろん、服装や髪型は「女性らしい」見た目であることだ。デートにパーカーとジーンズで行こうとは思わない。しかしそれが「良い格好を見せたいから」なのか、「女性らしさをアピールしたいから」なのかは自分にも分からない。前者なら"生物の本能"らしい感じがするが、じゃあバチバチにクールに決まったボーイッシュな私で行くぜ!と思うかと言われれば「否」と言うだろう。あくまで「女性らしさ」で勝負しに行くと思うが、仮に相手が「格好とか興味無いよ〜可愛いとかよくわからんし」みたいな人だったら果たして女性らしさを全面に押し出すだろうか。相手はきっと女性に対して女性らしさを好むだろうと言う期待によってそういう格好をしているのなら、私は相手に対してものすごい偏見を抱いていることになってしまわないか。それとも自分の1番似合う服がたまたま女性らしい服なので自分をよく見せたいと思うとそういう格好になってしまうだけなのか。

 

つまり、何が言いたいかと言うと、自分の中にもまだまだジェンダーバイアスは染み付いている可能性があり、それは簡単に削ぎ落とせるようなものでは無いということ。性役割の押し付けは良くないと思ってる自分ですらそうなので、なんとも思っていない人間にいきなり「それダメですよ!」と言っても意味がわからないだろうし反抗心が芽生えて当然だろうと思う。

「女性は可愛くあるべき」という風に言われるとめちゃくちゃ腹が立つけれど、実際にはそれに従って生きている自分がいるし、「男性はリードすべき」という言説にうわぁと思いつつそうだそうだと思う自分もいる。

ただ、一方でもう既に世界は「女性は可愛くあるべき」「男性はリードすべき」という風に大っぴらに言っては反感を買うというところまで進んでいるのも事実だ。その言い分に共感する人もいるだろうが、一般化をしてあたかもそれが普通のように語ってはいけないでしょう、という流れになってきている。

大っぴらに言う人が減れば、子供たちにそういう価値観が植え付けられる機会も減る。そして世代が変わればそういう価値観に縛られず育った子達が新しい価値観に寄り添って生きていく。変化とは常にそうであると思う。

だからこそ、なんの抵抗もなく差別発言をして、その言葉に責任を持たず、「不快に思わせたなら」とかいう受け取り側に責任を負わせるような言葉で謝罪する、そういう頭が置いてかれて老いてしまった人間がいなくなるまで、頑張って粘っていかねばなのだ。

 

もしも時代に遅れたる発言する者現らば

そっと頭を叩きませ 文明退化の音ぞする

『この世界の片隅に』感想

※ネタバレ注意※

 

終戦記念日ということもあって、見た。一言で言ってとても素晴らしい映画だと思ったし、節々にMAPPAっぽさがあってとても良かった。

以後思ったことをただひたすら書き連ねていく。

 

私は「普通」をきめ細やかに描いている作品が大好きなので、この映画もすごく好き。劇中にも何回か「普通」という言葉が出てきていたので、私はこの映画のテーマを「普通であること」だと感じたし、その普通がいかに難しいかを描いた映画だと感じた。

そういう意味で主人公はすごく「普通」の女の子だ。絵が上手いことが取り柄の普通の子。そして普通の女の子が普通の家庭に嫁いで、他の家と同じように、「普通に」貧しくなっていく。

そして同時にこの物語では「普通」から外れていった人たちからどんどん亡くなっていく。「普通」から外れる人たちというのは、私の解釈では「日常よりも戦うことの優先度が高くなってしまった」人達のことだ。まず兄が亡くなり、哲が亡くなり、そして晴美が亡くなる。

晴美はまだ幼い子だが、あの子は最初から「普通」ではなかった。学校で戦争について好意的に学んだのだろう。将来は軍人になると言ったり、軍艦に異様な興味を示したりしており、あの家族の中で異質な存在だった。

いや、むしろ軍事関係の仕事に就いていながらあまり戦争に興味がなさそうで、かなり戦況を冷静に見ている義父と、いつも「必ず帰ってくる」と約束してどこかに行く旦那こそ、あの状況下では異質で、そして状況には惑わされない「普通」を持っている存在だと思った。

 

それから、もうひとつ、義姉と主人公の対比がかなり面白かった。常に自分で選択し、それで得たものを失う義姉と、常に与えられて生きてきて自分で選んだものもほぼ手元に残っている主人公。主人公が自分で選んだものは旦那と居場所だが、それは既に与えられたものを「捨てるか捨てないか」の選択において「捨てない」を選んだに過ぎない。

さらに旦那を選んだ時、つまり哲と夜伽をさせられそうになって断った時、主人公に「捨てられた」哲は死んだし、居場所を選んだ時、つまり呉か広島か迷って最終的に呉を選んだ瞬間に、主人公に「捨てられた」広島は原爆によって跡形もなく消えた。残酷な話だ。義姉が選択によって失う人だとしたら、主人公は選択によって他方をなくす人なのだろう。

選択ついでに、最後の演出は一瞬「これまでのこと全部夢オチ」みたいな終わり方をするのかとヒヤヒヤしたけど、そんな安い感じじゃなくて良かった。「もし左手に繋いでいたら」晴美はどうなったかという、別の選択の結果を見せるいい演出だった。主人公の人生は「絵」で埋め尽くされており(空襲が来た時に絵の具があったらと思ってる時点でかなり重症である)、文字通り「絵命」という感じだったので、「絵」か「命」かどちらかを捨てる選択の上に無意識に命を選んだということなんだろう。

 

現代に生きる私はむしろ義姉の視点で主人公を見てしまいがちだった。主人公は常にどんくさくヘラヘラしてて今居たらおそらくかなり腹が立つだろうが、その一方で優しくおおらかで憎めない存在なので多分一緒にいるうちに好きになってしまう。でもそのどんくささゆえに自分の娘が犠牲になったのなら、やはり簡単には許せまい。最初の方で義姉に言われた「広島に帰ったら?」の台詞がここで主人公に効いてくるのがニクい。遅いよ。

 

とまぁ、なかなか物語として楽しめました。いつもすぐ泣く私ですが、今回はあまり泣きませんでした。でもそれが良かったな。泣かせるぞみたいな感じじゃなくて。

 

今日くらいはこの世界のあちこちで亡くなった人に思いを馳せながら生きていたいですね。もう二度とこんなことが起こらないように。

無題その2

大物芸能人が亡くなって1週間。今日もまた「命とはなにか」考えさせられる大きな事件を目にして、ずっと考え込んでる。

優生思想とは?安楽死/尊厳死とは?自殺とは?自殺幇助とは?命の扱いについてどう向き合うべきか?ずっとずっと考えてる。最初に断っておくと、今回はずっと、結論のない、泥沼のような話を延々としてます。

 

まず日本では安楽死/尊厳死が合法化されていない件について。私は諸手を挙げて賛成できない。例えばもし自分が、生命活動の維持が激しく困難になるような病気になったとして、「症状が重くて、辛くて辛くて死んでしまいたい」けど「上手く死ねない」ならそこに安楽死としての価値があると思う。

でも「この病気には莫大な医療費と家族の協力が必要で、それは申し訳ない、それならいっそ居なくなった方がいい」から「死にたい」というケースになった時、本人の意思と言えるだろうか?死にたい、と自発的に言っている点は同じだとしても、ホントにそれは本人のみの意思か?それを混同せずに判断を下せる医師がどれほど要るのか?

とかね。色々思う。例えば医療費がかからないし自力でも何とかなりそうな環境があれば死のうとは思わなかったのではないかなとか。でも自分の命の行く先を自分だけで決めることってまず無くて、大体環境によって左右されないか?その点で同立ではないか?とか。いろいろ。

 

安楽死は他人に自殺の手伝いをさせるという意味で自殺幇助だけど、もし安楽死が合法化したら自殺幇助も合法化あるいは減刑になるんだろうか?麻薬と同じで医療的行為は合法でそれ以外の用途だと違法になるのか?麻薬は治すためだけど安楽死は行き着く先は死しかないわけで、つまり死刑の時にボタンを押す人と同じ扱いになるのかな。死刑ボタンの人が罪人を捌く正義として扱われるなら、安楽死医師は死にたい人を殺す正義になるの?人を殺すことが正義になるってめちゃくちゃ中世的だな。

 

安楽死の何が複雑かって、自殺幇助と自殺がセットで組まれてる事だと思うんだよね。自殺は罪に問われないことが複雑化させている。気がする。自殺は罪ではないけど倫理的に良くないこと、として教えられるから、余計に混乱する。良くないとは言いきれないし、かと言って「死は救済」みたいなことは冗談でしか言えない。なんていうか、「死」って概念そのものが善悪を超越してるんだよな。生きることは明確に「善」であるという社会認識があるのに死は善悪じゃないというのが興味深い。いや、死は「悪」って認識って実は一般的だったりする?でもその割に安楽死議論は盛り上がるよね。この議論は生きることの善が揺らいでるのか、死の悪が揺らいでるのか、どっちなんだろうね。

 

優生思想について思うこと、まず命の価値は平等なのかについて考えなきゃいけない気がする。

死んだら等しく終わりという点で"平等"だけど、それは価値と言うよりも物質としての性質?品質?が一定であるということでしかないなとか。

命の価値、というより「人生の価値」とした方が社会的な差別感情が浮き彫りになるかなとか。

例えば今私が自殺しても悲しむ人は極小数で、でも三浦春馬の自殺には多くの人が悲しんで、そこには明確な私と彼の人生の価値の差があって、でも彼自身が彼の人生に価値を見いだせないからこその自殺だったわけで、その点で現時点では自分の人生に価値を感じてる私の人生の方が価値は高いとも言える。

けれど多くの場合、人生の価値を規定するのは他人であるし、ある意味優生思想って「その人が死んだ時に悲しむ人が少なければ殺していい」的な思想な感じがするんよね。

悲しむ人がいなければ死んでいいのか、議論は前の記事で私がうだうだ考えてるのでそちら参照。

無題 - 徒然。

 

人は死にたいと思ったら死ぬ権利があるし、それを邪魔される筋合いは無いのだが、死にたいと思った原因は多くの場合環境的な要因であるし、それを出来るだけ取り除いてあげることは出来るはずだし、一個人スケールの話は置いておいて、社会としては常に生きにくい人を生きやすくする政策を立てるべきだし。

いちばん不気味なのは生きにくい人を生きやすく、という方向ではなく、生きにくい人がいかに死にやすく出来るか、という方向に話が進んでいること。わたしはこれは違うんだよなと思っている。

はい、終わり。

無題

有名人が自殺したというニュースを目にして、心が何となくナイーブな時期だからなのか、本当に「なんか知ってる」程度の人なのにかなり心を揺さぶられているので、ここに色々吐き出して落ち着かせようと思う。

もちろんこのブログも誰かの心を悪い意味で揺さぶってしまう可能性があるので、見る人は存分に気を付けて見てほしい。

 

 

まず、タイムラインで突然その情報が流れてきたのを知って、さすがに顔も名前もわかる人だったし、その人をかっこいいと言う人も中高時代周りにに居たのでかなりびっくりしてトレンドに入っている彼の名前をタップして、様々な人の投稿を目にして思ったことは、Twitterに投稿したこの言葉になる。

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「死んだ人間の言葉を借りて」云々についてはこういうツイートのことだ。

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このツイートが引用している三浦春馬の言葉は以下の通り

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確かにSNSの誹謗中傷問題は深刻だ。人を殺す感覚を感じない使い捨てできる銃を、倫理観の有無にかかわらずたくさんの人が持っている状態なのだから。でも、亡くなった途端多くの人が三浦春馬のツイートを用いて「誹謗中傷良くない」って言い出すのには寒気がした。亡くなった途端、その人が発信した切実な言葉は他人が自分の"おキレイな"意見を言うための道具に成り下がるのか。なんか納得いかない。まずそれでモヤモヤした。

 

それから、自殺ということに関連して悪い意味で印象に残ってるのが高校の時の「いのちの授業(笑)」で、とにかく最悪だったので話題の関連ということもあってさっきぼんやりと思い出していた。

まずはじめに、担任が生徒に対して「なぜいのちは大切なんですか?」と問いかける。

もうこの時点で質問の意図がわからない。1つしかないから、以外に答えあんのか。いや本当にそれ言ったら笑うな〜。とかイライラして思いながら黙ってたらクラスメイトが指名されて、その人も色々戸惑いながら「亡くなったら悲しいから?」と答えた。

高校生で、特に壮絶な人生を送っていなければこの答えが出るのは妥当だろうと思う。私はしっかりと答えたその人には拍手を送りたい。ただ問題はここから先で、先生がその答えを肯定するのはまぁ、そもそも"答え"なんて無いので良いとして、あろうことかその答えをその授業の結論にしたんだ。

もうビックリして言葉が出なかった。誰にも悲しんでもらえないなら人は死んでも構わないって言ってんのと同じだぞって。高校生が一意見としていうならまだしもお前がそれを結論に持ってきちゃダメだろって。

そもそも問いからして狂ってると思う。というか自殺抑止という名で蔓延る世の中のメッセージ全般が狂ってる。どうしていつも「自殺する主体」に投げかける言葉ばかりなんだろう。自殺したい人へ投げかける言葉は「命大事に」なんかじゃなくて「辛かったのによく頑張ったね」の言葉だ。

「なぜ命が大切か」なんて私は未だに答えを出せないよ。だけど少なくとも今私は自分の命を大切だと思ってる。それは誰かに頼られているからとか好かれているからとかそういう事じゃなくて、辛いこともあるけどそれなりに自分で自分を気に入って大事に思えてるから。

自殺する時って、「自分で自分を大切に思えなくなっちゃった時」なんじゃないのかな。だから「なぜ命は大切か」って問いは最悪なんだ。だって自殺寸前のメンタルを持ってる人にとってはそもそも「命=大切」の図式が成り立ってないんだから。さらにその結論が「亡くなったら悲しいから」???特にいじめによる自殺を助長する発言でしかない。

 

私は自殺というトピックに対して、焦点を「自殺する人」じゃなくて「その周りの人」に当てるべきだと思う。というのは、「自分の命を大切にしましょう」じゃなくて、「他人の命を大切にしましょう」を全面に押し出すべきだということ。もし自分が自分の命を大切に思えなくなっても、それを他人が気付いてあげられるなら防げる自殺もあるんじゃないのかな。

「相談してください」じゃなく、「相談してもらえる人間/機関になりなさい」じゃないのかな。

弱っている人に最期まで「いのちは大切」とか自分の当たり前を押し付ける社会でなく、弱っているひとが縋れる藁の沢山ある社会を、少なくとも自分の周りでは心がけていきたいな。縋れる藁になりたいな。そう思います。

和解する世界で迂回する正解

昔から学校が嫌いだった。社会集団を形成"せざるを得ない"ことを窮屈に感じていたし、なによりその社会集団の中で上手に生きれなかった。果たして「上手に生きる」ことが何なのかは未だによく分からないけど、少なくとも人に同調し、自分の意志を最小限に抑え、どのような結論も拍手を持って出迎える、その環境に慣れることは小中高の12年間をもってしても学ぶことは不可能だった。

 

それから、実力より努力の方が認められる環境というのも生きづらかった。本来実力を身に付けるための努力なのに、努力した方が評価されるなんておかしいと感じていた。

 

私は努力ができない。苦手とかじゃない。できない。そういう性質の人間だ。努力も実力のうち、と言う言説は耳にガンができるくらい聞いているが、果たして全くその通りだと思う。私には努力の才能も実力もないし、その力を鍛える努力をすることもできない。だから努力できる人のことは本当に尊敬しているし、努力する人間が評価されることは全くもって正当だと思っている。

ただそれとこれとは別で、確かに努力は評価されるべきだが、実力を評価することの方に重きを置くべきだ。これは自分が何でも出来るから言ってるわけじゃないしむしろ私なんてできないことの方が多すぎて本当にこうなってしまったら私は最底辺に近い部類の人間になるだろうがそれでもこう主張したい。

 

世の中結果が大切だ。過程は大切じゃないと言ってるわけじゃない、だけどやっぱり結果が大切だ。テストであれば点数、部活であれば成果、会社であれば実績がものを言う。そして成功乃至失敗した際に、なぜ?を問うために初めて過程が重視される。それが正しい。と思う。

「頑張ってるから」という過程を理由に結果がどうであれ評価するというのは情に流されすぎて理性的な判断出来ない人のやることだと思っている。頑張りは頑張りというカテゴリーで評価すればいい。ただその基準は一律ではないし、日本ではどうも「体を酷使する=頑張る」という図式が出来上がってるように感じる。腕を壊すまで投げ続けるピッチャーは美しいし不眠不休で仕事をするリーマンはかっこいいし讃えるべき存在。頑張りは体を壊すことじゃなくて自分のパフォーマンスを最大限にするために登りつめることであるべきなのに、頑張りというパフォーマンスを最大限にしてどうするんだろう。

学校でも、例えば「頑張ったから偉い」じゃなくて、「こういう努力をしたからこういう結果が出たね」という褒め方をすべきだし、努力不足を責めたいなら「成績が伸びなかったのはこういう過程が足りなかったからじゃないか」と言うべきだ。なんでテストで9割取ってんのに脳筋育成みたいな宿題出せって言われなきゃいけないんだ、なんのための宿題だ(私怨)

 

なんにせよ偉そうなこと言うなら結果出せってことだと思うので、私は頑張ります。たとえなにより努力が嫌いで苦手だったとしても。