徒然。

理想と現実と

年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

色々なことに蹴りもついて、ここからは「修める」ことではなく「始めること」に向けて動いていくので、今までの事を色々と振り返りながらポツポツと書いていきたい。

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まず、勉学のこと。

そもそも私は数学の方が社会科の暗記よりもずっと得意だったという話は既に何回もしているしなぜ社会科に進んだかという話も沢山しているのだけど、改めて思い出と共に整理していきたい。

ゼミの卒業制作の方にも書いたのだが、私が一番最初に歴史というものに興味を持ったきっかけは小学五年生の頃にたまたま小学校で借りた『まんが百人一首なんでも事典』(金の星社)だ。なぜ出版社まで知っているかといえば、高校生の時くらいにふと思い出して猛烈に欲しくなり、表紙の記憶だけを頼りに調べまくったからである。ちなみに今これを書いていたらまた猛烈に欲しくなってしまったので購入した。

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美麗な絵と歌の意味のわかりやすい四コマ漫画は私を惹き付けるのには十分で、貸出期限が過ぎたら返却してまたすぐ借りて何回も読み直したおかげで平安時代に日夜思いを馳せている立派なオタクが完成した。当然百人一首の人が出てきている飛鳥〜平安後期の歴史を習った時はとても生き生きとしていたし、『漫画日本の歴史』みたいなやつも平安時代の部分だけ読んでいた。清少納言の「香炉峰の雪」や「函谷関の鶏」のエピソードを知って「こんな知的な返しのできる人になりたい」と思ったことも、「男に産まれたら良かったのに」と嘆かれるほどの才覚でガンガン出世した紫式部が目標人物になったのもこの頃のことである。結局そのような人間には今のところ成れていないわけだが。

そして同じ頃、百人一首の本を借りていることからもわかる通り私は知欲に飢えていた。学校の授業では全く物足りず、それ故にやる気が起きていなかったのだが、それに気付いた両親は中学受験塾に通わせてくれた。これは本当に感謝している。

塾では「学校ではこんなこと絶対に習わない!」ということをこれでもかと言うくらい沢山教わり、結果的に学校はより退屈な場所になったわけだがそれでも毎日充実していた。友達と公園で遊ぶより塾の友達と勉強することの方が楽しかった。

塾で知欲を満たされる一方で、その知識を一言一句違わず覚えることは苦手だったので、最低限覚えればいくらでも活用出来る国語算数が得意になり社会理科が不得意になった。そして知欲を満たす目的で行っていたので受験というものの向上心はあまり無く、結局そこまで頑張らなくても入れる中高一貫校を受験して入学した。この頃にもっと向上心をもって上を目指していたら全然違う人生だったかもしれない。

中高一貫校ではあまり頑張らず入ったためか、勉強はほぼせずともいつも上位だった。常に1位を取るくらいの勢いで頑張っていればもっとまともな人間になっていたと思うのだが、そこまでの向上心はなく、そのくせやはり成績は取れてしまうので慢心と自尊心ばかりが肥大化して最悪な人間になっていった。知欲を満たすために授業中はみんなが寝ていても起きているくせにその知識を定着させることに興味は無いので宿題を全くやってこず、しかし成績がいい生徒というのは教員からしても扱いづらかっただろう。

さて、そんな中でもそれなりにハマっていたものがあり、何かというと「幕末」である。中1の時にたまたま新選組をモチーフにした乙女ゲームにどハマりし、推しの経歴や新選組そのものの動きを調べまくった。新選組という団体は時代の流れから産まれてくるものなので当然時代背景も学んだ。

その結果歴史を大層好きになり、社会科の先生とも休み時間の度に話していたし、文理選択を迫られた時も「得意な理系に行っても将来やりたいことなんて無いしな…教員になるとしたら得意なことは苦手な子の気持ちが理解できないからやっぱり文系かな…」と言う気持ちで文系を選んだくらい、歴史が(というか幕末が)好きだった。職業についてはともかく、大学で学びたいこととして得意な理系より歴史の方が圧倒的なウエイトを占めていたのだ。

さてそんなこんなで文系に進み、高校3年になってみんなが本気を出し始めても、勉強面での私は努力をしないというのが相変わらずで、成績も徐々に落ちてきてはいたのだがそれでも危機感はなく、今までやってこなかったせいで努力の方法も全くわからず、結果として浪人することになる。

しかし浪人期に入った予備校もそれはそれは楽しかった。なんと言っても中高では中途半端に満たされていた知欲をこれでもかと言うくらい刺激されたからだ。今まで、暗記教科と言われる社会や英語については問題を解くという行為があまり好きでは無かったのだが、点数を取るためでなく論理的思考力を身に付けるために解くという方向にシフトさせることが出来、そのおかげでやっと社会や英語の問題と向き合えるようにもなった。

予備校のおかげでなんとか第一志望の大学に合格し、2年になってずっと入りたかった教授のゼミに入り、そこからは古文書との格闘というこれまた未知の戦いがあったのだが、古文書は解読すれば何かしらの情報を得ることが出来るので結構楽しかった。もちろんスルスル読めるわけではないので何回も発狂しながら読んだけれど。

今までほぼ「頑張る」「努力する」ということを嫌悪・忌避してやってこなかった自分にとって「頑張って古文書を読み進める」というのはかなりつらいことではあったものの、同時にそれなりの達成感もあり、「頑張るって案外いいことなのかもしれない」と少しだけ思えるようになったのが大学で近世史を学んでいて1番良かったことのように思う。そして今後自分がダメダメな人間になった時、唯一芯から支えてくれるもののようにも思う。本当に出会えてよかった。

 

音楽について

歴史が好きな期間もそこそこ長いけど、音楽との付き合いはさらに長い。それこそ母親のお腹の中にいる時からずっと付き合ってきたもので、なぜなら両親2人ともピアノ関係の仕事をしていたからである。産まれてからも物心着く前からずっと父親の流す音楽を聞いていて、小学一年生からはピアノを習った。といっても私はそこまで上手くはなかった。

弟と一緒に通い始めたピアノは弟ばかりが「音がいい」と褒められるし、マルチタスクが苦手な自分は両手で弾けるようになるまでかなりの時間が必要だった。母親から「なんでこんなことも出来ないの」と言われるのも苦痛だった。その上クラシック音楽にそこまで魅力を感じず、コンクールも別に出たくないのに毎回出されて「親の面目のために弾いている」感覚がいつしか強くなってしまい、受験勉強を言い訳にピアノは辞めた。贅沢だとは思うが、このままだと音楽全て嫌いになるところだったのでやめられてよかったと思う。

入った中高一貫校は高校が吹奏楽部の強豪として有名だった。父親が中学生の頃吹奏楽部でトロンボーンを吹いていたことを知り、私もトロンボーン吹いてみたいなと思って吹奏楽部に入った。中学の吹奏楽部はそこまでの実力がなかったので高校生からは適当に可愛がられつつわりとフワフワと活動していた。

はずなのに、中学二年の時に高校吹部出身の人が教育実習生として来て中学の指揮を担当し(今思うと教育実習生にそんな重役任せるとか最悪すぎる…と思う)、なぜか西関東大会まで進んでしまった。ぬるぬる吹奏楽は僅か1年間しか出来なかったのだ。でも全員わりと下手でいるより音が合ってちゃんと演奏出来るというのは結構楽しかった。

中3になると僅か1名飛び出て人数制限に引っかかってしまって別の部門に出ることになって、周りは強い学校ばかりだったので残念ながら地区大会で終わってしまったが、全員それなりに奮闘したのでこれも楽しかった。

高校生になると強豪あるあるな嫌なことが沢山あった。まずオーディションでやりたい楽器をやれない人が出てくる。さらに先輩後輩関係なく上手い人が1番いいバンドやパート内でも1番上の位に行くので人間関係がドロドロする。トロンボーンパートではもともとの人間の気質なのかあまりドロドロすることはあまり無くみんなわりとぽやぽやしていたが。

さらに下のバンドの人間もあまり休みがない。毎日部活部活でその上学校は「文武両道」とうるさく、勉強も手が抜けない状況(私は前述の通りあまりやらなくても点数を取れたのでむしろ吹部という言い訳で宿題ものらりくらりと避けていたクズであった)。

また、高校生になると先生の指示の矛盾に気付くようになってくるし、「教師の勝手さ」というものを嫌でも感じることが多くなった。辞める同期も多くなってきたし、その時に実力の差によって先生の止め方の熱が違うのも目立って嫌だった。そして音楽の好みの自我も出てきて、先生の指示に対して納得できないことも増えていった。こういうことに目をつぶって活動できる人間ならもっと頑張れたのだろうが、色々と限界だった。私は3年の定期演奏会にでて色々と美味しい部分だけ頂いて部活を辞めた。同期と後輩には迷惑をかけたとは思うので申し訳ないとは感じている。

結局ピアノもそうだったが、またもや音楽そのものを嫌いになる前に辞めたのだ。そのセンサーだけはよく働くので面白い。

そこから浪人期含めて約2年間は父親が流す音楽の中でいいと思ったものを教えて貰いつつ、聞くだけに徹していた。チェットベイカーやカーティスフラーの名前を覚えたのもこの時期である。他にもマイルスやエヴァンス、ミンガス、ノラなど沢山覚えたが特に好きだったのがチェットやカーティスだった。ジャズ以外ではメニューインというバイオリニストやセゴビアというギタリストなど挙げればキリがないが、やはりジャズがその頃から既に1番好きだった。

大学に入っても当初はサークルに入る気は毛頭なかった。前述したが、ある先生のゼミに入りたくてこの大学に入ったのでそれ以外は特に興味もなく、バイトと勉強を頑張ろうと思っていた。のだが、サークル紹介でジャズ研が学科の教室に回ってきた時、久しぶりに生の楽器の音、生の演奏を聞いて無性にジャズをやりたくなってしまった。今まで聞いていただけのものを自分で出来るかもしれないと思うと、すごく興味をそそられた。サークルのお花見に行って「カーティスフラーが好きです」と言った時に先輩たちからドン引かれたのは今でも覚えている。私もそんな後輩来たら嫌だ。

そこからは本当に微々たる成長のまま4年間過ごしてしまい悲しい限りではあるものの、演奏しててつらいと思うことは沢山あれどジャズを嫌いだと思ったことは1度もなかったのできっとつらさも含めて楽しかったんだろうなと思う。

自分の中の音楽の核は父親の影響が大きすぎてそこから動くことは出来ないものの、初めて親から独立して親の好みとは全く違う音楽を好きになったし、世の中の素敵な音楽にたくさん出会えた。そういう意味でもジャズ研に入ってジャズをやれて本当に幸せだったと思う。

 

仕事について

最後に今後への抱負も含めて仕事についての話をしようと思う。

私はそもそも公教育で満足することが出来なかった人間であることは「勉学について」を読めばわかるところではあると思うが、それでもなぜ教員を目指したかと言うと、中学の頃に慕っていた先生が言っていた「俺は最低な教員に担任を持たれたことがあって、そん時に"こんな教師の犠牲者を増やしてたまるか"と思って教員になった」という言葉に動かされたからだった。その先生はその言葉通りあまり「聖職」感のない人で、親しみを持てる人だったのを覚えている。

その言葉を聞いて以来、「反感を持ちながら教員になるのもいいな」と考えるようになり、またなんだかんだ人に教える機会も多く、満足してもらえると嬉しかったので漠然と教員を目指すようになっていった。教員への不満は全て「まぁ私はこんな教員にならないようにすればいいだけか」と思って昇華していったことも記憶に残っている。

無事教員になるための第一関門である大学受験をクリアして大学で日々学んでいると、「こんな教師になりたくない」像が教員養成大学で教鞭をとっているという事例に遭遇することもあり笑ってしまったが、なんだかんだ教員という職業に向かって進んでいた。バイトも個別指導の仕事を選んで改めて生徒が成長するということに満足感を持っていた。

そんなポジティブな気持ちが変わった出来事のひとつとしてやはり教育実習は外せない。授業を作るということの難しさを感じ、また授業を作ることだけならつらいなりに楽しかったのだが実際に授業をすることがとにかく苦痛だった。個別指導をやりすぎた弊害なのか、自分のもともとの性質なのか、集団に教えるということが怖すぎた。担当教員もほかの先生も「10割に満足してもらえる授業は無理だから7割を目指せ」と言っていたが、それで割り切れるようなメンタルを持ち合わせていなかった。退屈そうにしてる生徒を見るだけで胃が痛くなったしわかってなさそうな顔をされるとその場で「下手でごめん〜」と何度も謝りたくなった。それに個別指導に来る子達は大体学校の授業が退屈すぎるかついていけないかの2択だったので、自分がそういう子達を生み出してしまうことに抵抗があった。

そんなこんなでなんとか実習は終わらせたが、もう色々と限界で教員を目指すことを辞めた。ただ実習を経て「学校からあぶれた子を助けたい」という思いが強いんだなと自覚することが出来た。考えてみれば自分はいつも学校の授業が退屈で仕方なかった人間で、同時に私を楽しませてくれたのはいつでも塾だった。(これは現在学校で働いている人やこれから働く人に対して攻撃するものでは無く、ただ私が巡り会った環境がただそうだっただけであることを心に留めといてほしい。)

そうして今、春から塾の教室マネジメントの仕事のために準備をしている。ずっと私教育の恩恵を受けていた自分が私教育に携わるというのは、何の因果かという思いだ。自分の教室に通う生徒が満足してくれるといいなと思っている。

 

今までの自分の人生が全て今の自分に繋がっていると思うと面白い。そしてこれからも自分の経験したことがまた自分に返ってくるんだろう。毎年毎年、少しずつ成長して少しずつ違う自分になって、けれど核の部分は揺らがない、そんな歳の取り方をしたいと思う。

最後に、タイトルにもなっている好きな漢詩を全文載せて締めたいと思う。

 

代悲白頭翁   劉希夷

洛陽城東桃李花 飛來飛去落誰家
洛陽女兒惜顏色 行逢落花長歎息
今年花落顏色改 明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪 更聞桑田變成海
古人無復洛城東 今人還對落花風
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
寄言全盛紅顏子 應憐半死白頭翁