徒然。

理想と現実と

涙はいつ零れるか

ついにサークルの先輩方が卒業してしまった。まだ全然実感がわかないけれど、別れの場ということもあって泣いている人がやっぱり多かったなと思うし、私も泣いた側の人間だった。まだ実感湧いてないけど。

そしてもちろん、泣いてなかった側の人達もいて、そっち側だった友人は「私は薄情だからな〜」的なことを言っていた。

 

泣いた側の人間として言えば、私は卒演で泣けなかった人達のことを「薄情」とは思わない。これは卒演に限らずどの場面でもそうだと思う。

私の場合「泣く」という行為は「喜怒哀楽全てにおいて感情が振り切った時に涙が出てくること」を指すので、その基準でものを言うならば、泣かない人は感情を貯めるタンクが大きいんじゃないかなと思う。

だからなにか出来事があった時に、その時の感受性が低いわけじゃなくて(そりゃもちろんそれだって人によって異なると思うけど)、同じような質量の感情を受け取ってもその人の感情タンクの容量によってその感情が溢れるか溢れないかが変わってきて、溢れた場合はそれが涙になって出てくるんじゃないかな。だからあんまり泣かない人は薄情なんかじゃない。泣かない分だけ感情を受信できる素敵な人だと思う。

 

 

というのも持論ではあるけど、そもそも感情を量で測りたくないっていうのも本音ではある。

詳しい話は忘れたけど、日本史で習った話で、お米を取引する時にお米を図る枡がそもそも地域ごとに違って同じ単位なのに分量が違くて取引ができないから京枡に統一したって話がある。

もちろん枡は統一出来るけど、感情タンクは統一できない。だからその時点で感情を量で表すなんて馬鹿げてるというか、意味が無いことなのだ。

 

嬉しい時は嬉しい。腹立つ時は腹立つ。悲しい時は悲しい。楽しい時は楽しい。

それでよくない?そのメモリは確かに自分の中では存在するかもしれないけど、「私の方がつらい」とか「あなたは涙脆すぎる」とか、一元化されてない基準の中で物量を測るなんて、それこそ中学受験の時点でそんなんじゃ理科の実験はできないって習うから。

 

涙が出たのならそれはすごく印象的な出来事だったのだし、涙が出なかったとしても感情が乏しいことにはならない。

これを読んだ全員が感情について人と比べることがなくなりますように。