徒然。

理想と現実と

音楽

そもそも「音楽」って字面を見ると「童謡・クラシック」のジャンルが半強制的に浮かんでくる。自分にとってこの感覚はすごく気持ち悪いしさっさと取り払いたい。小学校の頃歌いたくもないつまらん歌を歌わされた記憶とか、リコーダーで意味もなく曲を吹かされた記憶とか(歌えばいいじゃんって思ってた。今思うと楽器に対する"レア感"が薄かったのかもしれない)、とにかく時間割に書かれていた「音楽」の文字と情景の記憶が条件付けされてしまって、ある種フラッシュバック的にそういうジャンルが出てきてしまう。気持ち悪くてゾッとする。

 

私がここで言う音楽っていうのはそういう「国が高尚だと思ってるジャンル」の話じゃなくて、私達が好き好んで聞く曲の話。もちろんクラシックだって童謡だって構わない。

 

音楽に求めるものってなんだろう。そもそも音楽に「求める」ってなんだろう。でもきっと「これを聞いてると元気になれるんです!」とか、「この曲は私を日常から切り離してくれるんです。」とか、「何もかも忘れたい時に聞くと心が満たされるんです...」とか、きっとそういう思いを音楽に対して抱くことが「求める」ということなんだろう、と思う。

こう思う人のことを私は「健全」だと思う。音楽がなくても当人の生活は完結してて、ちょっとした彩りを人生に加えるために音楽を聴くんだろう。

 

私だってもちろん健全なので急いでいる時に音楽はいらないし、人と喋ってる時も音楽はいらない。要らないのに、頭の中で鳴る。

健全なので何もしたくない時は音楽を聞かない。聞かないのに、頭の中で鳴る。

 

私が音楽に求めることは思いつく限りで3つ。「落ち着き・日常・心に余白を作る作用」。

音楽に「落ち着き」を求めるって言うのは、前述の通り私の頭の中は常に音楽で満たされているから、強制的に他の音楽を聴いて混沌とした音を一元化させる必要があるから。だけど音が止まったら今度は声が出てくる。そして性格がうるさくて激しい子なので反動で暗くて静かな曲を好む。

そして「日常」を求める。矛盾のような気はするけど、常に音楽を聴いているので音楽がない方が非日常なのだ。もし音楽と非日常が結びつくとしたら、例えば紅白歌合戦を見ている時。普段聞かないジャンルばっかり流れるから。そしてひとしきり聞いて頭と耳が疲れて、年が明けたらチェットベイカーを聞く。その時の安心感と言ったら、それこそ日常に帰ってきた時の感覚。チェットベイカーを聞くだけで、そこはばーちゃんちのこたつの中なのに、電車の中、家で食べる夜ご飯、湯船、歯磨きの行程がいっきに蘇って、安心して心が布団に入る。いつも聞いてるから。

そして、「心に余白を作る作用」を求める。もうここまで読んでお分かりだろうが、心も頭も常にいっぱいいっぱいなんだ。なんにもまとまらないんだ。こんなに多くの文字数(現在1180字オーバー)のことを全部考えて(たった音楽のことだけで)、それも今は時間をかけて吐き出してるけど思慮は一瞬だからもうぐっちゃぐちゃで、もうショート仕掛けてるんだ。じゃあなんで今ショートしてないか?

それは今も音楽聞いて書いてるから。

ブログの下書きには書こうと思ってショートしちゃった文章がいくつか入ってる。その時音楽を聞いてたかどうかなんて覚えてないけど、それくらい私の思考回路は容易くこんがらがる。音楽を聴いていれば落ち着いて日常に帰ってくるから心が安心するし、音楽が雑念をある程度かき消してくれるから、この脳内をどうまとめるべきかまれに見えてきたりするのだ。(残念ながら今回は形を整えるだけで精一杯)

 

この感覚を人と共有したい訳では無いし、共有できるとも思ってないけど、私と趣味が合わないのは聴いてる音楽の問題じゃなくて私の体質のせいだって言い訳ができたから、ここら辺で寝よう。