徒然。

理想と現実と

無題その2

大物芸能人が亡くなって1週間。今日もまた「命とはなにか」考えさせられる大きな事件を目にして、ずっと考え込んでる。

優生思想とは?安楽死/尊厳死とは?自殺とは?自殺幇助とは?命の扱いについてどう向き合うべきか?ずっとずっと考えてる。最初に断っておくと、今回はずっと、結論のない、泥沼のような話を延々としてます。

 

まず日本では安楽死/尊厳死が合法化されていない件について。私は諸手を挙げて賛成できない。例えばもし自分が、生命活動の維持が激しく困難になるような病気になったとして、「症状が重くて、辛くて辛くて死んでしまいたい」けど「上手く死ねない」ならそこに安楽死としての価値があると思う。

でも「この病気には莫大な医療費と家族の協力が必要で、それは申し訳ない、それならいっそ居なくなった方がいい」から「死にたい」というケースになった時、本人の意思と言えるだろうか?死にたい、と自発的に言っている点は同じだとしても、ホントにそれは本人のみの意思か?それを混同せずに判断を下せる医師がどれほど要るのか?

とかね。色々思う。例えば医療費がかからないし自力でも何とかなりそうな環境があれば死のうとは思わなかったのではないかなとか。でも自分の命の行く先を自分だけで決めることってまず無くて、大体環境によって左右されないか?その点で同立ではないか?とか。いろいろ。

 

安楽死は他人に自殺の手伝いをさせるという意味で自殺幇助だけど、もし安楽死が合法化したら自殺幇助も合法化あるいは減刑になるんだろうか?麻薬と同じで医療的行為は合法でそれ以外の用途だと違法になるのか?麻薬は治すためだけど安楽死は行き着く先は死しかないわけで、つまり死刑の時にボタンを押す人と同じ扱いになるのかな。死刑ボタンの人が罪人を捌く正義として扱われるなら、安楽死医師は死にたい人を殺す正義になるの?人を殺すことが正義になるってめちゃくちゃ中世的だな。

 

安楽死の何が複雑かって、自殺幇助と自殺がセットで組まれてる事だと思うんだよね。自殺は罪に問われないことが複雑化させている。気がする。自殺は罪ではないけど倫理的に良くないこと、として教えられるから、余計に混乱する。良くないとは言いきれないし、かと言って「死は救済」みたいなことは冗談でしか言えない。なんていうか、「死」って概念そのものが善悪を超越してるんだよな。生きることは明確に「善」であるという社会認識があるのに死は善悪じゃないというのが興味深い。いや、死は「悪」って認識って実は一般的だったりする?でもその割に安楽死議論は盛り上がるよね。この議論は生きることの善が揺らいでるのか、死の悪が揺らいでるのか、どっちなんだろうね。

 

優生思想について思うこと、まず命の価値は平等なのかについて考えなきゃいけない気がする。

死んだら等しく終わりという点で"平等"だけど、それは価値と言うよりも物質としての性質?品質?が一定であるということでしかないなとか。

命の価値、というより「人生の価値」とした方が社会的な差別感情が浮き彫りになるかなとか。

例えば今私が自殺しても悲しむ人は極小数で、でも三浦春馬の自殺には多くの人が悲しんで、そこには明確な私と彼の人生の価値の差があって、でも彼自身が彼の人生に価値を見いだせないからこその自殺だったわけで、その点で現時点では自分の人生に価値を感じてる私の人生の方が価値は高いとも言える。

けれど多くの場合、人生の価値を規定するのは他人であるし、ある意味優生思想って「その人が死んだ時に悲しむ人が少なければ殺していい」的な思想な感じがするんよね。

悲しむ人がいなければ死んでいいのか、議論は前の記事で私がうだうだ考えてるのでそちら参照。

無題 - 徒然。

 

人は死にたいと思ったら死ぬ権利があるし、それを邪魔される筋合いは無いのだが、死にたいと思った原因は多くの場合環境的な要因であるし、それを出来るだけ取り除いてあげることは出来るはずだし、一個人スケールの話は置いておいて、社会としては常に生きにくい人を生きやすくする政策を立てるべきだし。

いちばん不気味なのは生きにくい人を生きやすく、という方向ではなく、生きにくい人がいかに死にやすく出来るか、という方向に話が進んでいること。わたしはこれは違うんだよなと思っている。

はい、終わり。