徒然。

理想と現実と

和解する世界で迂回する正解

昔から学校が嫌いだった。社会集団を形成"せざるを得ない"ことを窮屈に感じていたし、なによりその社会集団の中で上手に生きれなかった。果たして「上手に生きる」ことが何なのかは未だによく分からないけど、少なくとも人に同調し、自分の意志を最小限に抑え、どのような結論も拍手を持って出迎える、その環境に慣れることは小中高の12年間をもってしても学ぶことは不可能だった。

 

それから、実力より努力の方が認められる環境というのも生きづらかった。本来実力を身に付けるための努力なのに、努力した方が評価されるなんておかしいと感じていた。

 

私は努力ができない。苦手とかじゃない。できない。そういう性質の人間だ。努力も実力のうち、と言う言説は耳にガンができるくらい聞いているが、果たして全くその通りだと思う。私には努力の才能も実力もないし、その力を鍛える努力をすることもできない。だから努力できる人のことは本当に尊敬しているし、努力する人間が評価されることは全くもって正当だと思っている。

ただそれとこれとは別で、確かに努力は評価されるべきだが、実力を評価することの方に重きを置くべきだ。これは自分が何でも出来るから言ってるわけじゃないしむしろ私なんてできないことの方が多すぎて本当にこうなってしまったら私は最底辺に近い部類の人間になるだろうがそれでもこう主張したい。

 

世の中結果が大切だ。過程は大切じゃないと言ってるわけじゃない、だけどやっぱり結果が大切だ。テストであれば点数、部活であれば成果、会社であれば実績がものを言う。そして成功乃至失敗した際に、なぜ?を問うために初めて過程が重視される。それが正しい。と思う。

「頑張ってるから」という過程を理由に結果がどうであれ評価するというのは情に流されすぎて理性的な判断出来ない人のやることだと思っている。頑張りは頑張りというカテゴリーで評価すればいい。ただその基準は一律ではないし、日本ではどうも「体を酷使する=頑張る」という図式が出来上がってるように感じる。腕を壊すまで投げ続けるピッチャーは美しいし不眠不休で仕事をするリーマンはかっこいいし讃えるべき存在。頑張りは体を壊すことじゃなくて自分のパフォーマンスを最大限にするために登りつめることであるべきなのに、頑張りというパフォーマンスを最大限にしてどうするんだろう。

学校でも、例えば「頑張ったから偉い」じゃなくて、「こういう努力をしたからこういう結果が出たね」という褒め方をすべきだし、努力不足を責めたいなら「成績が伸びなかったのはこういう過程が足りなかったからじゃないか」と言うべきだ。なんでテストで9割取ってんのに脳筋育成みたいな宿題出せって言われなきゃいけないんだ、なんのための宿題だ(私怨)

 

なんにせよ偉そうなこと言うなら結果出せってことだと思うので、私は頑張ります。たとえなにより努力が嫌いで苦手だったとしても。