ペットショップで犬を買った恋人の母親
久しぶりに怒りでどうにもならなくなってしまったので、この「叫びの壺」に叫んでいきたい。
最初に、ここから先はペットショップでペットを購入する行為に対してものすごい怒りをぶつけているため、当事者の人、あるいはそれを良しとする人は見ないことをおすすめする。
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恋人とその家族は昨年8月に犬を亡くしていた。
ペットショップで買った豆柴のメスで、恋人が高校生くらいの時に家に来て、8歳という短さで恋人家族の元から発ってしまった。
私と恋人も付き合いたてで、ちょうど旅行に行く前日にその知らせを受けたため、旅程を急遽変更して恋人を犬の葬儀に送り出し、私は1人で観光地をブラブラとしていた。
そのくらい大事にしていたんだと思うし、今でも大切に心の中に住まわせているのだと思っていた。
その恋人家族が、再び犬を飼うらしい。
前に犬を亡くしてから1年半も経過していないのに。
前の犬とおなじ犬種の豆柴をまた飼うらしい。
しかもペットショップで買うらしく、理由も「保護犬讓渡会に何回も足を運んだけどいい子がいなかったから」だそうだ。
その知らせを恋人から聞いて、あまりの残忍さに涙しかこぼれなかった。
命をなんだと思っているんだろう。
あまりにも人間本意すぎるでしょう。
そもそも私はペットショップという空間が大嫌いだ。
あんなの、奴隷商人みたいじゃないか。
見世物小屋の小さな空間にまだ産まれたての子を閉じ込めて人間に品定めさせ、見目・血統のいい子から高値で売りさばいていくなんて、てんで正気じゃない。
そんな正気を失った空間で何の疑問も抱かず品定めできる人間もまた大嫌いだ。
恋人もそういったタイプの人間で、なぜそんなことが出来るのかと私が問うたら、彼は「どうせ飼うなら可愛いほうがいい」などと抜かしやがった。
なんでそんなこと、命の前でシレッと言えてしまうんだろう。
可愛くなくなったら捨てるのだろうか。捨てられた犬たちも昔は可愛かった子達だろうに。
本当にペットショップで購入する人間が理解できないのだ。こころから。
そして、前の犬を亡くして1年半も経っていないのに、次の犬を買いたいというのも、心底理解しがたかった。
どんな犬を見たってまだ比べてしまう段階じゃないの。
実際に犬に触ったら、まだ前の犬の感触がハッキリ思い出せる程度の時間しか経ってないんじゃないの。
私は自分の家の猫を亡くして7年近く経ってから猫カフェに行って猫を触った時でさえ、飼い猫だった子と感触が違くてさみしくなってしまったし、猫は余程のことがないと飼えないと悟ってしまった。
7年という時が経ってすら、未だに撫でた感触を忘れられないのだ。未だに生きている姿で夢にも出てくる。この文を打つだけで涙が出てくる。
況や1年半をや。
恋人いわく、家族は「気持ちに整理がついたから」どのことだが、気持ちに整理が着くとしたら早すぎやしないか。そんな薄情なのか。
しかも同じ犬種だ。
どう考えたって前の犬の投影先を探しているだけじゃないか。
「前の犬は前の犬、新しい犬は新しい犬」と言っているが、そんなの建前に過ぎない。
実際にそばにいて、日々成長している姿を見て、姿を重ねないことなどできるはずも無い。
まして同じ犬種なのだから。
「保護犬讓渡会にも沢山足を運んだけどいい子が見つからなかった」のだって、本当に"いい子"が見つからなかったのかもしれないが、私は違うと思う。
結局前の犬と同じ犬種を購入しているということは、つまりは知らず知らずのうちに前いた子と比べてしまっているということなのだ。
前述の通り、保護犬だって昔は可愛いと思われ購入されていったはずである。
にも関わらずいい子がいないというのは、やはり選ぶ側のバイアスに問題があるとしか思えない。
もちろん保護犬もペットショップの犬も、どちらも同じ命である。
ただ、片や辛い経験をして流れ着いた子を助けた団体と、片や高額で見世物として売っている団体、どちらを取るかと考えた時、犬の犬種や見目だけで後者を選ばてしまうその感性が、もう無理なのだ。
いい子がいなければ犬を飼うこと自体諦めることも出来たはずで、それをしないというのは保護犬讓渡会にはじめから犬種目的で行っていたということにもなる。
何重にも腹が立つ。何様なんだ。
恋人の家族の話だから関係ないと言えば関係ないが、自分の身近なところに愚鈍で浅薄な人間がいるというのが非常に腹立たしく、無性に悲しい。
もう購入してしまったそうなので、次の犬の幸せを祈ることしかできないが、その知らせを聞いてから恋人の家に飾ってある前の犬の写真を直視できない。
ねえ、まだあなたの三回忌も終えてないのにもう次の同じ犬種の子に行くんだって。
1回も会ったことの無い関係だけど、私はあなたを今撫でてあげたい。
あなたにとってはこのことも全部案外どうでもいいのかもしれないけど、せめて私の怒りがあなたの救いになりますように。
【備忘録】死んだばあちゃんの夢
覚えておきたくて、朝の5時にここに記します。
まず現実の話。
大好きなばあちゃんは今年の春に突然亡くなった。
少しボケも入りはじめてたらしい───と祖母の娘の母は言う───し、結構足腰も痛めていたけど、88歳としてはとても「元気」な状態で突然いなくなってしまった。大往生という理想的な死の形で。
最期は自分の住んでる団地のお部屋のトイレで、遺品整理なんかで訪れてトイレに行く時に私はよく「現場行ってくる」などと冗談を言ったものだ。まぁそんなことはおいておいて。
とにかくばあちゃんが大好きだった。それこそ今でも夢に見たあと起きて泣いてしまうくらい。
だって小さい頃は共働きの両親に変わって私達姉弟を育ててくれていたのだから。
そんなばあちゃんの夢を見た。
私が見たなんでもない夢を、なんてことないけど覚えておきたくて、以下に記す。
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深夜に彼氏の家でテレビを見ていたら、私の携帯に知らない番号がかかってきた。
ひとまず出ずにその番号を検索すると、「○○病院の番号+病室の番号」と出てくる。
夢の中の私はここで「ああ、ばあちゃんと同じ病室の中村さんかな」と急に思い至った。
「もうばあちゃんは死んじゃったのにどうしたんだろう」とも思った。
けどこれは出なきゃな、と考えてその電話に出ると、
中村さん「もしもし、ケイコさん(ばあちゃんの名前)のお孫さんよね。お元気してるかしら」
私「はい、元気です。すみません、ご要件というのは…」
中村さん「いえね、ケイコさんがご家族に会いたいって言うからね、私がお節介でかけちゃったのよ、今変わるから待っててね」
と喋った後、保留のメロディーが流れはじめた。私は「もうばあちゃんも死んじゃったのにこれは…中村さんもかなりやばいな…」などと思いながらそのメロディーを聞いていた。
しばらくすると保留の音声が途切れて、電話の向こうから声がした。
「もしもし、(私の名前)ちゃん?元気しとった?ごめんな〜こんな夜中に。中村さんが強引にかけるっちゅうからばあちゃんも止めてんけどな〜。まぁでもせっかくやし久しぶりに顔でも見せぇな。ばあちゃんも待ってるでな、ほなもう夜も遅いし切るな、じゃあね」
その後少ししてまた中村さんが変わって「じゃあよろしくね、私も待ってるわね」とだけ言って電話は切れた。
夢の中の私は「中村さんがばあちゃんの真似して電話してきた……中村さんもマジでやばいぞ……」と思って両親に事の顛末を記したLINEを送ろうとして、
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ここで目が覚めた。
まず前提として、ばあちゃんは一切入院していない。かかりつけの医者は足腰の先生で、内臓系はどこも悪くなかったからだ。
なので当然「中村さん」という同じ病室のマジでやばいばあちゃんも存在しない。これは夢が作り上げた存在だ。
それから私がばあちゃんの死を夢の中で既に受け入れていたことについても、起きて少しびっくりした。
飼っていた猫が死んだ時には、1年くらい夢に見ても普通に生きてると思いながら猫と遊び、起きてから死んだ事実に気付いてよく泣いたものだったから。(今はさすがに夢に見ても「死んだのにまた見てるな…」と思いながら別の猫だと思って接している)
猫と違い、ばあちゃんは流石に葬式とか遺品整理とか納骨とか、色々死後の行事をしたおかげで心にもある程度区切りが着いていたのだろう。
でも、夢で聞いた「中村さんがばあちゃんを真似た声」は明らかにばあちゃんの声だった。よくLINEで軽く電話する時のそれだった。夜中に突然かけてくるのも同じ。
夢が私に、ばあちゃんの声を聞かせてくれたんだなと思った。
ばあちゃんの声は残せなかったけど、この夢のことは書いたらいつでも思い出せるから、書いておこうと思った。
そしていま、このブログを久しぶりに更新している。
ちなみに起きてすぐばあちゃんの声を聞けたことが嬉しくて、もう聞けないことが悲しくて泣いていたら、隣で寝ていた彼氏がすぐに起きて慰めてくれて、一人でない時にこの夢を見られて良かったとも思った。昨夜は喧嘩して酷い言葉を浴びせたのを心底反省したし、起こしてしまって申し訳ない気持ちである。
あと薬を飲んでもあまり引くことがなかった生理痛が、夢から覚めてから引いていた。
最近仕事が忙しく、ストレスで泣きたかったけどいまいち泣けなかった自分が、久しぶりに号泣出来た。
などなど、夢の副作用もあった。
しんどいこと全部重なって限界だった自分のことを、ばあちゃんが慰めてくれたのかな。
そうとしか思えないな。
ありがとうね、ばあちゃん。どうぞ安らかに。
私はもう一眠りして、今日の仕事に備えます。
傘
傘が好きだ。
雨の日に自分を雨粒から守ってくれる物というのは、それだけで安心感・信頼感が芽生えるし、心が温かくなる。
歌の歌詞で「あなたが雨に濡れそうな時私が傘になる」的なニュアンスのものが頻繁に出てくることからも、傘を「災難から守るもの」の比喩として使われていることがよくわかる。
「あなたが雨に濡れそうな時私が傘になる」というありがちな歌詞(仮想敵)について少し穿った見方をすると、歌の中の主人公にとっては、傘は"自分がなるもの"なのだ。おもしろい。
私は傘が好きなので、「お前の好きな物になる」などと自ら申し出てくれる人は大歓迎なのだが、それはそれとしていささか解釈違いが生じてしまうのが残念なところである。
というのも、私は傘について「自己肯定の具現化」だと思っているからだ。
冒頭にも記述した通り、私は傘について「雨の日に自分を雨粒から守ってくれる物」だと考えている。
自分が雨という災難を避けるために広げて、自分を守るためのものであって、自己犠牲・他者奉仕の為に使われる道具では無いのだ。
もちろん他人を慮る心は美しい。愛する人が雨で濡れないようにという気持ちも分かる。けれども、大切な人の傘になることや、大切な人に傘をあげること、すなわち「自分が濡れること」について厭わない姿勢というのは、傘というものの本質から外れている気がするのだ。
傘の、温かくて大きな愛は、まず第一に持ち主に向けられているものであり、買った人間を守るための物なのだから。
だから、傘は「自己肯定の具現化」なのだ。自分を災難からよけてやることが自己肯定じゃないならなんなのだ。私たちは傘を差すとき、自然と自分を愛しているのだ。
そういう考えを持っているので、雨に濡れても平気な人間を見ると、私はなんとも言えない気持ちになる。
傘を貸してあげるとか一緒に入れてあげるとか、そういうその場しのぎの対処をもちろん考えるし実行もするが、そういうことではなく、もっと根本のところの意識を思って悲しくなってしまう。
濡れても平気な人には、まず自分の傘を持って自分を守るくらいの自己肯定をしてほしい、と思う。ただ、現実的に傘は透明傘でもそこそこ高いので、「持ってなければ気軽に買える」というものでもなく、難しいところではあるのだが…。
そういえば、「濡れても平気」で思い出したのだが、どう見てもビショビショに濡れてるのに温かい気持ちになったことが一度だけある。
コンビニ袋をぶら下げたカップルが、壊れかけの透明傘1本を2人で持って、何が面白いのかケラケラと腹を抱えながら歩くので、持っているはずの傘が全く意味をなさず、結果2人ともほぼ全身濡れた状態で歩いている光景を見た時だ。
彼らにとって傘はあってもなくても変わらないのに、手を繋ぐついでだと言わんばかりにとりあえず差していて、その傘はこの2人だけの世界を肯定するためだけに存在していた。仮に持ち主を濡らしたとて、誰のためでもなく自分たちのためだけに差されたその傘は雨の中で何よりも大きな肯定をしていた。素敵だった。
また今年も梅雨が来る。傘の出番も増えることだろう。傘が素敵だと雨の日も楽しくなるので、素敵な傘を1本、買っておくことをお勧めする。
胸きゅんセリフを全否定したい
あーーーーーーーーー!!!!
毒を吐きたい!!!!!!!!!!!!
今世界中の全てが敵!!!の気分!!!!!
よく「世界中の人が敵になっても味方でいるよ」的なセリフがあるけど、世界中の人が敵に回ってる時はもれなくあんたも敵なんだよな〜〜〜!!!!!!「世界中の人が敵」かつ「あんたが味方」が真であるとき、あんたはたぶん宇宙人なんだわ!!!!!
などと考えながら思ったんですが、とりあえずこの意味のわからない鬱憤を同じくらい意味のわからない胸きゅんセリフにぶつけるとちょっとスッキリしますね。なので、この場を借りて胸きゅんセリフを全否定していきます。胸きゅんセリフが好きな人は見ないでください。
「胸きゅんセリフ」で検索して1番上に出てきたサイトを参考にします。今回引用したのは『マイナビwoman( https://woman.mynavi.jp/article/190731-23/ )』です。すごいんだこれが
では上から順番に否定していきます。
飾らない言葉でストレートに響く定番系・胸キュンセリフ
"飾らない言葉"と"定番系"、単語どうしが喧嘩してる感じするんだけど私だけですか?型に染まってないのを飾らないって言うんだと思っていたんだけど、違いましたか?
(1)「好き」「愛してる」
いきなり否定しづらいところからスタートしてビックリした。こんなん言われたら素直に嬉しいよ。強いて言うなら言葉より行動で伝えて欲しい派です。次
(2)「ずっと一緒にいよう」
出た〜永遠系。
もうめちゃくちゃ嫌い。永遠を軽く口に出すやつほどすぐに消えるんよ。なんでそんなわからないこと軽々しく口にできるのか理解できないし、「ずっと」って言葉も曖昧すぎる。「これから50年一緒にいよう」の方がまだ信頼出来る。上司も「人を説得するのに1番効果的なのは数字」って言ってたし。
てかね、そもそも江國香織の「瞬間の集積が時間であり、時間の集積が人生であるならば、私はやっぱり瞬間を信じたい。」って言葉に心が動く人間だから、軽々しく「ずっと」とか言う人間と価値観が合わなすぎるのよ。私は!今!貴方といる瞬間を!大事にしたいの!ずっととか!全然興味無いの!次
(3)「お前が1番可愛い」
"お前"って言うなーーー!!!
てか1番てなんだよ、誰と比べてんだよ、2番3番もいていつでもランキング入れ替わりますってか?唯一無二だろうがよ貴様の恋人はよ〜〜〜 言葉で可愛いとか言うより穴が空くくらい見つめててください。次
(4)「大丈夫? 休んでいいよ」
いや、なんで許可制????上司?????上司に休んでいいよって言われても別にキュンとはならんけどな。「アッスザッス」みたいな。休んでいいよとか言われんでも大丈夫じゃなきゃ休むわ。せめて「無理しないでね」とかではない???全くわかりません。次
(5)「いつでもそばにいるよ」
嘘じゃん。ほんと「ずっと」とか「いつでも」とか、思ってないやつほどすぐ言うよな(ど偏見)
これシチュがイマイチわからんのだけど、相手が弱ってる時にこれ言ってるならタダの支えてますアピールじゃん。「あなたが心配なのでそばにいさせてください」と言え。次
(6)「がんばらなくていいよ」
なんかさっきから思ってたけど、なんでそんな全部上からなん?なんで私の行動の許可をあなたに貰う必要があるん?マイナビの女に自己決定権があるやつ居らんのか?令和だぞ。次
(7)「無理しなくていいよ」
同上。次
(8)「今抱きしめていい?」
わ〜〜〜〜〜〜急に謙虚じゃん。
ちゃんと同意取れてえらい。いいよって時には両手広げてすしざんまいの状態で待ってるから飛び込んできてな。こういうこと聞いてくる人はそもそもハグが不意打ちではなく相手が身構える前提なのでハグのバリエーションが豊富(偏見)。
これはなかなかキュンと来ちゃったな〜と思って同サイトのコメント見たら「個人的には、前置きなんかいらずに強引に抱きしめてほしいタイプなんですが……。」と書かれており、やっぱりマイナビの女には自己決定権がないらしいことが分かりました。次
(9)「そういうところも好きだよ」
否定できない。ありがとう。あなたにそう言って貰えて救われる短所があります。いいえ私は「めんどくさいけど好きだよ」と言われたい女
(10)「いつまででも待つよ」
だから時間軸をやたら永遠にしたがる人間は信じないって言っただろ。納期を定めろ。仕事出来ないんか?いつまででも待つよとかいう人に限って3日くらいで痺れ切らす(ど偏見) 次
男っぽいセリフに弱いんです……俺様系・胸キュンセリフ
見出しから無理そう……そもそも「男っぽい」からそろそろ脱却しませんか?と言いたい
(1)「俺の彼女になれよ」
ヒェッ……怖……………… え?
なんで命令してくるんですか?既に所有物として見てないと出てこない口調じゃん、怖すぎ。そしてこれを胸きゅんとか言って紹介するのも怖すぎ。確かに別の意味で心臓はヒュッとなるけども。どんなにイケメンに言われても嬉しくないわこんなの。普通に付き合ってくださいと言えないのか。次
(2)「俺から離れるなよ」
ダァーーーーーー!!!!! おい
私はマイナビの女が怖い
「俺から離れるなよ」って言っててキュンとくる男、元気な幼稚園児と散歩しとるお父さんくらいでしょ。そら言う事聞かない人間相手にするならそういう言葉が出てもしょうがないけども。あたしゃ幼稚園児か?
てかなんで全部他責なんだよ。私が離れないように努力しろよ。怖。10年前の少女漫画で時が止まってるのかな。
(3)「おいで」
ワン!ワンワンワン!
行くやろ
(4)「俺だけ見てろ」
小学校の文法の授業で命令形しか習わなかった人?それならもう何も言うまい。てかこういうこと言う人って一周まわって不安なんだろうな〜って思う。自己肯定感低そう。自己肯定感低い人は割とすきです。現実見えてないのに無駄に自己肯定感高い人よりは。
(5)「俺がお前を守る」
お前って言うな あと守らなくていいからそばに居てくれ それだけでいいのに…………
以上でした。
総括
「とりあえずお前って言われても嬉しくないし、命令形も嬉しくないし、安直な永遠系も嬉しくない」
完全にやけくそになった個人の見解でした。
久々のブログ更新がこれってどうなのかな。
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
色々なことに蹴りもついて、ここからは「修める」ことではなく「始めること」に向けて動いていくので、今までの事を色々と振り返りながらポツポツと書いていきたい。
まず、勉学のこと。
そもそも私は数学の方が社会科の暗記よりもずっと得意だったという話は既に何回もしているしなぜ社会科に進んだかという話も沢山しているのだけど、改めて思い出と共に整理していきたい。
ゼミの卒業制作の方にも書いたのだが、私が一番最初に歴史というものに興味を持ったきっかけは小学五年生の頃にたまたま小学校で借りた『まんが百人一首なんでも事典』(金の星社)だ。なぜ出版社まで知っているかといえば、高校生の時くらいにふと思い出して猛烈に欲しくなり、表紙の記憶だけを頼りに調べまくったからである。ちなみに今これを書いていたらまた猛烈に欲しくなってしまったので購入した。
美麗な絵と歌の意味のわかりやすい四コマ漫画は私を惹き付けるのには十分で、貸出期限が過ぎたら返却してまたすぐ借りて何回も読み直したおかげで平安時代に日夜思いを馳せている立派なオタクが完成した。当然百人一首の人が出てきている飛鳥〜平安後期の歴史を習った時はとても生き生きとしていたし、『漫画日本の歴史』みたいなやつも平安時代の部分だけ読んでいた。清少納言の「香炉峰の雪」や「函谷関の鶏」のエピソードを知って「こんな知的な返しのできる人になりたい」と思ったことも、「男に産まれたら良かったのに」と嘆かれるほどの才覚でガンガン出世した紫式部が目標人物になったのもこの頃のことである。結局そのような人間には今のところ成れていないわけだが。
そして同じ頃、百人一首の本を借りていることからもわかる通り私は知欲に飢えていた。学校の授業では全く物足りず、それ故にやる気が起きていなかったのだが、それに気付いた両親は中学受験塾に通わせてくれた。これは本当に感謝している。
塾では「学校ではこんなこと絶対に習わない!」ということをこれでもかと言うくらい沢山教わり、結果的に学校はより退屈な場所になったわけだがそれでも毎日充実していた。友達と公園で遊ぶより塾の友達と勉強することの方が楽しかった。
塾で知欲を満たされる一方で、その知識を一言一句違わず覚えることは苦手だったので、最低限覚えればいくらでも活用出来る国語算数が得意になり社会理科が不得意になった。そして知欲を満たす目的で行っていたので受験というものの向上心はあまり無く、結局そこまで頑張らなくても入れる中高一貫校を受験して入学した。この頃にもっと向上心をもって上を目指していたら全然違う人生だったかもしれない。
中高一貫校ではあまり頑張らず入ったためか、勉強はほぼせずともいつも上位だった。常に1位を取るくらいの勢いで頑張っていればもっとまともな人間になっていたと思うのだが、そこまでの向上心はなく、そのくせやはり成績は取れてしまうので慢心と自尊心ばかりが肥大化して最悪な人間になっていった。知欲を満たすために授業中はみんなが寝ていても起きているくせにその知識を定着させることに興味は無いので宿題を全くやってこず、しかし成績がいい生徒というのは教員からしても扱いづらかっただろう。
さて、そんな中でもそれなりにハマっていたものがあり、何かというと「幕末」である。中1の時にたまたま新選組をモチーフにした乙女ゲームにどハマりし、推しの経歴や新選組そのものの動きを調べまくった。新選組という団体は時代の流れから産まれてくるものなので当然時代背景も学んだ。
その結果歴史を大層好きになり、社会科の先生とも休み時間の度に話していたし、文理選択を迫られた時も「得意な理系に行っても将来やりたいことなんて無いしな…教員になるとしたら得意なことは苦手な子の気持ちが理解できないからやっぱり文系かな…」と言う気持ちで文系を選んだくらい、歴史が(というか幕末が)好きだった。職業についてはともかく、大学で学びたいこととして得意な理系より歴史の方が圧倒的なウエイトを占めていたのだ。
さてそんなこんなで文系に進み、高校3年になってみんなが本気を出し始めても、勉強面での私は努力をしないというのが相変わらずで、成績も徐々に落ちてきてはいたのだがそれでも危機感はなく、今までやってこなかったせいで努力の方法も全くわからず、結果として浪人することになる。
しかし浪人期に入った予備校もそれはそれは楽しかった。なんと言っても中高では中途半端に満たされていた知欲をこれでもかと言うくらい刺激されたからだ。今まで、暗記教科と言われる社会や英語については問題を解くという行為があまり好きでは無かったのだが、点数を取るためでなく論理的思考力を身に付けるために解くという方向にシフトさせることが出来、そのおかげでやっと社会や英語の問題と向き合えるようにもなった。
予備校のおかげでなんとか第一志望の大学に合格し、2年になってずっと入りたかった教授のゼミに入り、そこからは古文書との格闘というこれまた未知の戦いがあったのだが、古文書は解読すれば何かしらの情報を得ることが出来るので結構楽しかった。もちろんスルスル読めるわけではないので何回も発狂しながら読んだけれど。
今までほぼ「頑張る」「努力する」ということを嫌悪・忌避してやってこなかった自分にとって「頑張って古文書を読み進める」というのはかなりつらいことではあったものの、同時にそれなりの達成感もあり、「頑張るって案外いいことなのかもしれない」と少しだけ思えるようになったのが大学で近世史を学んでいて1番良かったことのように思う。そして今後自分がダメダメな人間になった時、唯一芯から支えてくれるもののようにも思う。本当に出会えてよかった。
音楽について
歴史が好きな期間もそこそこ長いけど、音楽との付き合いはさらに長い。それこそ母親のお腹の中にいる時からずっと付き合ってきたもので、なぜなら両親2人ともピアノ関係の仕事をしていたからである。産まれてからも物心着く前からずっと父親の流す音楽を聞いていて、小学一年生からはピアノを習った。といっても私はそこまで上手くはなかった。
弟と一緒に通い始めたピアノは弟ばかりが「音がいい」と褒められるし、マルチタスクが苦手な自分は両手で弾けるようになるまでかなりの時間が必要だった。母親から「なんでこんなことも出来ないの」と言われるのも苦痛だった。その上クラシック音楽にそこまで魅力を感じず、コンクールも別に出たくないのに毎回出されて「親の面目のために弾いている」感覚がいつしか強くなってしまい、受験勉強を言い訳にピアノは辞めた。贅沢だとは思うが、このままだと音楽全て嫌いになるところだったのでやめられてよかったと思う。
入った中高一貫校は高校が吹奏楽部の強豪として有名だった。父親が中学生の頃吹奏楽部でトロンボーンを吹いていたことを知り、私もトロンボーン吹いてみたいなと思って吹奏楽部に入った。中学の吹奏楽部はそこまでの実力がなかったので高校生からは適当に可愛がられつつわりとフワフワと活動していた。
はずなのに、中学二年の時に高校吹部出身の人が教育実習生として来て中学の指揮を担当し(今思うと教育実習生にそんな重役任せるとか最悪すぎる…と思う)、なぜか西関東大会まで進んでしまった。ぬるぬる吹奏楽は僅か1年間しか出来なかったのだ。でも全員わりと下手でいるより音が合ってちゃんと演奏出来るというのは結構楽しかった。
中3になると僅か1名飛び出て人数制限に引っかかってしまって別の部門に出ることになって、周りは強い学校ばかりだったので残念ながら地区大会で終わってしまったが、全員それなりに奮闘したのでこれも楽しかった。
高校生になると強豪あるあるな嫌なことが沢山あった。まずオーディションでやりたい楽器をやれない人が出てくる。さらに先輩後輩関係なく上手い人が1番いいバンドやパート内でも1番上の位に行くので人間関係がドロドロする。トロンボーンパートではもともとの人間の気質なのかあまりドロドロすることはあまり無くみんなわりとぽやぽやしていたが。
さらに下のバンドの人間もあまり休みがない。毎日部活部活でその上学校は「文武両道」とうるさく、勉強も手が抜けない状況(私は前述の通りあまりやらなくても点数を取れたのでむしろ吹部という言い訳で宿題ものらりくらりと避けていたクズであった)。
また、高校生になると先生の指示の矛盾に気付くようになってくるし、「教師の勝手さ」というものを嫌でも感じることが多くなった。辞める同期も多くなってきたし、その時に実力の差によって先生の止め方の熱が違うのも目立って嫌だった。そして音楽の好みの自我も出てきて、先生の指示に対して納得できないことも増えていった。こういうことに目をつぶって活動できる人間ならもっと頑張れたのだろうが、色々と限界だった。私は3年の定期演奏会にでて色々と美味しい部分だけ頂いて部活を辞めた。同期と後輩には迷惑をかけたとは思うので申し訳ないとは感じている。
結局ピアノもそうだったが、またもや音楽そのものを嫌いになる前に辞めたのだ。そのセンサーだけはよく働くので面白い。
そこから浪人期含めて約2年間は父親が流す音楽の中でいいと思ったものを教えて貰いつつ、聞くだけに徹していた。チェットベイカーやカーティスフラーの名前を覚えたのもこの時期である。他にもマイルスやエヴァンス、ミンガス、ノラなど沢山覚えたが特に好きだったのがチェットやカーティスだった。ジャズ以外ではメニューインというバイオリニストやセゴビアというギタリストなど挙げればキリがないが、やはりジャズがその頃から既に1番好きだった。
大学に入っても当初はサークルに入る気は毛頭なかった。前述したが、ある先生のゼミに入りたくてこの大学に入ったのでそれ以外は特に興味もなく、バイトと勉強を頑張ろうと思っていた。のだが、サークル紹介でジャズ研が学科の教室に回ってきた時、久しぶりに生の楽器の音、生の演奏を聞いて無性にジャズをやりたくなってしまった。今まで聞いていただけのものを自分で出来るかもしれないと思うと、すごく興味をそそられた。サークルのお花見に行って「カーティスフラーが好きです」と言った時に先輩たちからドン引かれたのは今でも覚えている。私もそんな後輩来たら嫌だ。
そこからは本当に微々たる成長のまま4年間過ごしてしまい悲しい限りではあるものの、演奏しててつらいと思うことは沢山あれどジャズを嫌いだと思ったことは1度もなかったのできっとつらさも含めて楽しかったんだろうなと思う。
自分の中の音楽の核は父親の影響が大きすぎてそこから動くことは出来ないものの、初めて親から独立して親の好みとは全く違う音楽を好きになったし、世の中の素敵な音楽にたくさん出会えた。そういう意味でもジャズ研に入ってジャズをやれて本当に幸せだったと思う。
仕事について
最後に今後への抱負も含めて仕事についての話をしようと思う。
私はそもそも公教育で満足することが出来なかった人間であることは「勉学について」を読めばわかるところではあると思うが、それでもなぜ教員を目指したかと言うと、中学の頃に慕っていた先生が言っていた「俺は最低な教員に担任を持たれたことがあって、そん時に"こんな教師の犠牲者を増やしてたまるか"と思って教員になった」という言葉に動かされたからだった。その先生はその言葉通りあまり「聖職」感のない人で、親しみを持てる人だったのを覚えている。
その言葉を聞いて以来、「反感を持ちながら教員になるのもいいな」と考えるようになり、またなんだかんだ人に教える機会も多く、満足してもらえると嬉しかったので漠然と教員を目指すようになっていった。教員への不満は全て「まぁ私はこんな教員にならないようにすればいいだけか」と思って昇華していったことも記憶に残っている。
無事教員になるための第一関門である大学受験をクリアして大学で日々学んでいると、「こんな教師になりたくない」像が教員養成大学で教鞭をとっているという事例に遭遇することもあり笑ってしまったが、なんだかんだ教員という職業に向かって進んでいた。バイトも個別指導の仕事を選んで改めて生徒が成長するということに満足感を持っていた。
そんなポジティブな気持ちが変わった出来事のひとつとしてやはり教育実習は外せない。授業を作るということの難しさを感じ、また授業を作ることだけならつらいなりに楽しかったのだが実際に授業をすることがとにかく苦痛だった。個別指導をやりすぎた弊害なのか、自分のもともとの性質なのか、集団に教えるということが怖すぎた。担当教員もほかの先生も「10割に満足してもらえる授業は無理だから7割を目指せ」と言っていたが、それで割り切れるようなメンタルを持ち合わせていなかった。退屈そうにしてる生徒を見るだけで胃が痛くなったしわかってなさそうな顔をされるとその場で「下手でごめん〜」と何度も謝りたくなった。それに個別指導に来る子達は大体学校の授業が退屈すぎるかついていけないかの2択だったので、自分がそういう子達を生み出してしまうことに抵抗があった。
そんなこんなでなんとか実習は終わらせたが、もう色々と限界で教員を目指すことを辞めた。ただ実習を経て「学校からあぶれた子を助けたい」という思いが強いんだなと自覚することが出来た。考えてみれば自分はいつも学校の授業が退屈で仕方なかった人間で、同時に私を楽しませてくれたのはいつでも塾だった。(これは現在学校で働いている人やこれから働く人に対して攻撃するものでは無く、ただ私が巡り会った環境がただそうだっただけであることを心に留めといてほしい。)
そうして今、春から塾の教室マネジメントの仕事のために準備をしている。ずっと私教育の恩恵を受けていた自分が私教育に携わるというのは、何の因果かという思いだ。自分の教室に通う生徒が満足してくれるといいなと思っている。
今までの自分の人生が全て今の自分に繋がっていると思うと面白い。そしてこれからも自分の経験したことがまた自分に返ってくるんだろう。毎年毎年、少しずつ成長して少しずつ違う自分になって、けれど核の部分は揺らがない、そんな歳の取り方をしたいと思う。
最後に、タイトルにもなっている好きな漢詩を全文載せて締めたいと思う。
代悲白頭翁 劉希夷
洛陽城東桃李花 飛來飛去落誰家
洛陽女兒惜顏色 行逢落花長歎息
今年花落顏色改 明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪 更聞桑田變成海
古人無復洛城東 今人還對落花風
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
寄言全盛紅顏子 應憐半死白頭翁
返すがS
「会話」が苦手だ。
と言うと、もう誰も話しかけてくれなくなっちゃいそうなのだが、初めに言っておくとこれは全くもって字面通りの意味ではない。
いや、苦手っていえば苦手なんだけど…。私が苦手なのは会話を楽しんでいるその瞬間ではなく、「あ、この会話どこで切ろう」って思ってしまうその瞬間なのだ。
いや、厳密に言えば会話を終わらせたくはない。話すことなんて(その話題が適しているかは置いておいて)探せばいくらでもある。
ただ、うーん、説明が難しいんだけど、こう、「貴方(任意の相手)と会話すること」は楽しいのに、その内容の落としどころやキリどころがわからずなんとなくの引き伸ばしを始めた時、その瞬間が本当に苦手だ。
いっその事、突き放して「だよねー!~完~」からの次回作にご期待ください的沈黙に持って行きたい。でもあまりにも急な強制終了は唐突だし、かといって引き伸ばしにも無理がある。というか無理なのだ😭MPを削りながら無理矢理な繋げ方をして結局微妙な空気を作ってしまうのだ。「てかさ、」って他の話題出したら興味無さそうみたいな意思表示になっちゃいそうで怖いし。
ごめんなさい、本当に興味無い訳では無いの。ただその会話を続けられるウィットと知識が無いの!!!
自分自身、会話が続かないような中身しか持ち合わせていないことを自覚しているし、だからこそTwitterでの「いいね!」はめちゃくちゃ便利なんだ。誰かの言ってることにわざわざ返信せずとも(会話せずとも)好意を示せるなんて!!素晴らしき機能。そして自分が「相手」の反応を見ながら何か言う必要が無いこと。これも素晴らしい。
こんだけ苦手と言っていても、本当は永遠にポンポンテンポよくキャッチボールしていたい。本当は気の利いた返しを常にしたい。人の話はだいたい面白いしそれを本当はもっと聞いてたい。
でも誰かと私とのキャッチボールは、私がその人に上手く投げ返せなかったボールが地面にバウンドして、最初のうちはよくぴょんぴょんとはねているボールがそのうち勢いをなくして気付いたら転がる気力すら残ってないような、そんな感覚があって嫌だ。特に投げ返せなかったと気付いたら瞬間が嫌だ。あー、これ、今はバウンドしてるけどそのうち止まるやつだって思いながらただボールを見つめているだけのこの感覚が嫌だ。嫌いだ。苦手だ。
私の言う会話への忌避感は自分自身に対する嫌悪感がどんどん溜まるからであって、人との会話が面白くないから嫌いとか、そういうわけでは本当にないのだ。その会話にちゃんと乗れてる時は本当に楽しいし満足感もある。というか人が何かを語っているのは本当に好きなのだ。だからこれからもみんなの話は聞きたい。会話下手だけどよろしくね。
こんなんで社会人、やって行けるか不安です。
角田光代『Presents』を読んで
角田光代さんのお名前は存じ上げていたのだけれど、どのような文章を書く人なのかは全く知らずにいたので、素敵な著作に出逢えたなというのがまずはざっくりした感想。
物語自体は短編のオムニバス形式で、女性の登場人物が「Present」について思いを馳せていく。毎回物語に没頭しつつも「自分にもこんな経験はあったのかもしれない」と思える、そんなお話ばかりで、つまり主人公がどれも着飾らない等身大な女性ばかりだった。
全てのお話を読み終えたあと、きっとこれを読んだ人全員が考えるであろう「一番心に残った贈り物ってなんだろう」という問いについて考えていたのだけど、二十云年生きただけの私の「一番」なんていつ簡単に塗り変わってもおかしくない。けれどそもそも贈り物に優劣なんて付け難いのでそれについて今回は書き残していきたい。
そもそもこの話と巡り合えたのは塾のバイトで過去問を生徒に教える機会があったからだ。過去問に出てきて、かなり不意打ちだったので号泣しながら問題を解いた。その生徒を教える機会がなければこの話と巡り合うことは無かったので、まずこの本自体が「生徒からの贈り物」なのだ。
その塾で大学4年間アルバイトをしていく中で、沢山の生徒から沢山の「贈り物」を貰った。受験生からの受験結果、それとともに頂いた宝石のようなお菓子、懐いてくれている生徒が(お菓子のやり取りは禁止されているにもかかわらず)日常的にくれるお菓子、それと共に贈られる「先生大好き」という言葉、教室に貼ってあるだけの「先生の自己紹介カード」をしっかり見てそこに書いてある誕生日を覚えて当日貰った誕生日プレゼントのお菓子、そこに加えられる「いつもありがとうございます」の言葉…………
4年間で沢山の生徒から沢山の言葉とお菓子を貰った。私はそれだけのものを返せただろうか、私から贈れるものは勉強のアドバイスと問題の解き方しかない中でそれはしっかりと釣り合っていたのだろうか、とよく考える。そしてこれからもこの業界に居続ける以上常に考えていくことになるだろうし、考えることをやめてはならないと思う。
今日は1年間ずっと目をかけてきた生徒から第一志望の合格報告があった。受験というものと向き合う業界で働いてるのでこの「贈り物」は本当に嬉しい。ただ、結果よりも、私が授業中に贈った全てが、その生徒の人生をささえる何かになっていればそれ以上の喜びは無いと思う。
さて、確かに生徒から貰った贈り物はどれも嬉しいものでどれも大切なものだが、それを遥かに凌駕する、自分の命より大切なものがある。それはとんでもなく大きいサイズのミッフィーちゃんのぬいぐるみだ。ミッフィーちゃんは私が生まれてすぐ祖母が買ってきてくれたものらしく、ずっとずっと私の隣で一緒に寝てきた子なのだ。親に言いくるめられて悔しい時も、弟と喧嘩して腹の立つ時も、学校で辛いことがあった時も、受験や卒論でストレスが溜まりまくった時も、いつも抱き締めながら、時には涙も染み込ませながら一緒に寝てきた子なのだ。
時々、火事で家が全焼してミッフィーも焼けてしまったら、と考えてしまう。私にとってミッフィーは心の拠り所で、それを無くしてしまったら、今までずっと何とか立ってきた自分が全て崩れてしまうだろう。それくらいかけがえのない唯一無二の宝物で、貰った時の記憶なんて全くないけれど、祖母には一生感謝し続けるし、おそらくそれが「一番心に残る贈り物」となるのだろうと、弱冠二十なんぼの私は思っている。
春からの新生活にも、もし結婚したらその新居にもミッフィーちゃんは必ず持っていくだろうし、もし子供が生まれたなら私は多分赤子よりふた周りくらい大きなサイズのぬいぐるみを我が子に贈ると思う。その子が生きていく上で心の拠り所になるような、大きくて包容力のあるぬいぐるみを。